大の視点/先週のシリコンバレーの出張を終えて

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SHIFTのみなさん

おはようございます。丹下です。

先週は1週間、アメリカへ出張していたのですが、感慨深い思いを持ちながら、1週間を終えました。

というのも、ご存知の人もいるかもしれませんが、このインターネットの世界を創造した聖地をどうしても訪れたくて、
SHIFTを2005年に設立したときに、シリコンバレーに行ったことがあったんです。

会社の設立前後という事もあり日本を離れるのが不安でしょうがなかったのですが、まさにそのインターネットを通じて、世界が繋がる瞬間を感じた旅でした。

当時、2005年はホリエモンこと堀江 貴文さんが広島から出馬するという
タイミングで、僕の実家がある広島は大変賑わっておりました。

僕がアメリカに行ったのは、たしか2005年の8月末ごろ。まさに、堀江さんが選挙活動をしている真っ只中です。

そして偶然、広島でバーと民宿とマッサージ屋を経営している兄が堀江さんの後援会長をすることになり、
兄の経営している民宿に食事に来るという連絡をサンフランシスコで受けました。

起業したての僕からすると、雲の上の存在で、どうしても会ってみたい人物。でもアメリカと日本、時差は17時間で、距離は約9,000km……。飛行機に乗って帰っても、12時間かかる距離です。

絶対に会えない。悲し過ぎるとがっかりしていた矢先。兄に「お前の事を伝えたいけど、何の商売をしているのか分からないから文章にしてくれ」と言われました。

そこで、Wordで文章を作り、メールを送り、それをプリントアウトして渡してもらうことになりました。

なんだ、そんな簡単なことを。
と思いますよね?
でも、今やその“簡単なこと”という技術を実現させたのが、このシリコンバレーの研究所だったんです。
PARC(通称:パロアルト研究所)は複写機大手の米ゼロックス社が設立した、全米No.1の研究所です。

レーザープリンターも、GUIも、マウスも、LANもイラスト処理ソフトも。すべてこの研究所が創りました。

僕がアメリカから、約9,000kmも離れた日本まで、思いを手紙にしてホリエモンに渡すことができたのも、全てPARCの創造した技術のお陰でした。

そんな起業時に抱いた思いを胸に、約6年ぶりにシリコンバレーに行ってきました。
今度は、自社のサービスをアメリカで売るためです。

その話は、長くなるのでまた別の日記で書くとして。今日はそんな中で、心から尊敬するスティーブ・ジョブズについて書こうと思います。

僕、Old Macコレクターだったというのは、一部の人はよくご存知かと思います。
1998年当時、ある1台のパソコンを購入しました。

それが、最初のPower Macintosh 6300というマシンでした。
AdobeのIllustratorやPhotoshopなどを入れて、趣味で実験装置の絵などを書いてました。

Macってすごいな。本当に何でもできる。
こんな3Dグラフィックを僕が個人の力で作れるんだ……って興奮したものです。

そんな折、それを作ったスティーブ・ジョブズという人に興味を惹かれ、
「Apple Confidential 2.0 」という本を買って読みました。

彼がしてきた偉業。最初はスティーブ・ウォズニアックとガレージでパソコンキットを作った話。
パロアルト研究所との出会い。全てが、海の向こうの、夢のような物語でした。

それから、Macの事が頭から離れず、完全にMacオタクの状態に陥ったのです。
京都に住んでいた僕は、それから毎週のように大阪の日本橋(東京でいう秋葉原)に通うようになり、
Macの掲示板には毎日のようにアクセスし、情報収集に明け暮れていました。

そんな、大好きだったMacを創ったスティーブ・ジョブズ。
まるで神のような存在でした。

そんな彼が2011年の10月5日に、56歳という若さで他界しました。

彼は、僕の憧れの存在でした。アーティストとして。
彼の死は、僕にとってウォーレンバフェットやジャックウェルチ、ビルゲイツの死などの名だたる経営者とも比べられないほどの喪失感があります。

感覚としては、ジョン・レノンの死に近いです。

ただ、そんな彼にも、多くの欠点がありました。伝記にも記されているように、彼は現実湾曲空間という技を持ち、世の中に無い現象を、あたかも現実に存在するかのように、人を魅了し(騙し)、夢を見させるのです。

そして、モノづくりにあたっている際には、メンバーを蔑み、あるときは誉めまくり、あるときは泣いて脅し、もう異常なまでの執着心で、没頭します。

1977年にアップルを設立し、AppleⅡというPCで大成功を収め、1980年に株式上場。
若干20歳にして200億円の個人資産を持ち、一躍時の人となりました。

ただし、現実湾曲空間と激しい気性とが災いし、上場当時から主要な製品のプロジェクトから外され、本社と離れた小さな事務所で、Macintoshという本流とは違うプロジェクトをあてがわれたのです。

当時のメインプロジェクトは、巨万の富を築いたAppleⅡの後継機種であるLisaというPC。
多くの優秀なメンバーが割かれており、Macintoshの開発は事実上の左遷だったんです

しかしその苦境をもろともせず、スティーブ・ジョブズは、60人の優秀なエンジニアを、現実湾曲空間と激しい気性でコントロール。1984年にあの有名な、世界初のMacをリリースさせたのです。

そんな偉業を成し遂げた、スティーブ・ジョブズも、1985年にAppleを追い出されます。
あまりにも激しい気性とこだわりの強さが理由です。当時のAppleの取締役会は、彼の先見性、彼のクリエイティブさ、そして生み出すアート作品を理解できなかったのだろうと思います。

そんな彼が最初に作ったMacintoshは、1984年発売のMacintosh Plusというものです。
それ以降のMacは、マニアの僕からすると、スティーブが創ったものではなくて、他の誰かがリファインしたものに過ぎません。

そんな僕にとって、今回のスティーブの死をきっかけに、かつてのコレクション魂に火が点いてしまいました。

久しぶりにヤフオクを覗くと、そこには初代Macが売りに出ているじゃないですか。そして、なんと初代Macのカタログも売られていました。「欲しい、欲し過ぎる」と思った次の瞬間には、入札ボタンを押していました。

入札は21件になり、凄まじい入札の戦いの後……、なんと、僕はこのカタログを手に入れたのです。

話は戻りますが、自分で会社をはじめて最初に訪れた聖地を、6年ぶりに訪れて。飛行機の中では、スティーブ・ジョブズの伝記を読んで、iPhoneでメモを取り……感慨深い思いがあったのは、言うまでもありません。

僕は、SHIFTをAppleのようにアーティストな集団にしたい。
彼が、小難しいプログラミング言語を知らなくても、庶民に簡単にPCを使える術を与えたように、僕は小難しいテストという世界を誰でもできる再現性のある技術に置き換え、その労働から人類を解放させたい。

手動でテストをしている今のSHIFTが、自動化を取り入れると仕事が無くなるという、ノスタルジーな考えなんて一切ありません。単に、アートを創りたいだけ。だから、僕の名刺には、「アートをサイエンスに変える」という一言を添えています。

そんな、世界に誇れる会社にしたい。ただそれだけ。

2011.11.22 Masaru Tange(丹下 大)

※「大の視点」とは、SHIFTの代表取締役社長である丹下 大が
 当時SHIFTメンバーに向けて送ったメールを一部社外公開向けに再編集したものです

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