丹下さんが、☞エンプラ統轄部 細田さんに聞いてみた(前編)

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みなさん、おつかれさまです!執行役員の菅原です。今回はSHIFTで活躍する「シフトビト」として、エンタープライズ統轄部から、その長である細田さんをご紹介します!出会いは2016年の12月。入社前の忘年会から参加してくれて、いきなりステージ上でダンスを踊ってくれた細田さん(笑)。思考がすごく前向きで、実際に詳細な部分まで自分の目で見て実行しようとするマインドがとにかくスゴイ。非常にロジカルで、決断も早く、まさにデキる人!人生の大先輩でもありITがまだ普及していない時代からその世界に身を置いていた細田さんに、丹下さんから根掘り葉掘り聞いていただきました!


丹下 大

聞く人/丹下 大(たんげ まさる)
2005年株式会社 SHIFT を設立。2010年からソフトウェアテスト事業に舵を切った後は、今日まで爆走。2014年には東証マザーズへの上場を果たすが、その夢は終わらない。

細田 俊明

聞かれる人/細田 俊明(ほそだ としあき)
2017年2月入社。執行役員 兼 エンタープライズ統轄部 統轄部長。京都生まれの、京都大学工学部情報学科卒業。名だたる大企業を経験後、SHIFTへ。記録媒体が8インチのフロッピーディスクだった時代からIT、ソフトウェアに関わってきた。カラオケに行くとマイクを離さない。

不器用ですから。彫刻刀とかで手を切っちゃうので(笑)

丹下 大

細田さん、今日はよろしくお願いします。以前聞いた学生時代の話が面白かったから、そこから聞いていこうかな。細田さんそもそも京都大学の情報学科ですよね。生まれはどこなんですか?

細田 俊明

生まれは京都、長岡京です。でも、育ったのは大阪の枚方市ですね。高校は公立で、年間現役20人くらいが京大に行くくらいの進学校に入って。関西の人はまず京大に行くんですよねー。

丹下 大

現役ですか?

細田 俊明

はい、現役です。高校だと学年で4、5番目くらいの順位でした。

丹下 大

マジすか!すごいな。東大に行こうとは思わなかったんですか?

細田 俊明

東大は英語と国語ができないとダメなんですよね。僕は英語と国語ができなかったので(笑)。

丹下 大

典型的じゃないですか(笑)。

細田 俊明

でも、京大に入ってわかったんですけど、共通一次(※センター試験のこと)の点数、僕、最下位なんですよ。いろんな人に点数を聞いたんですが、僕より低い人はいなかったですね(笑)。その分、二次試験で巻き返したっていう感じなんでしょうけど。

丹下 大

僕も数学とか理科は相当良かったと思うんですけど、国語はぐちゃぐちゃでした(笑)。

細田 俊明

一緒ですね(笑)。

丹下 大

どうして情報学科に入ったんですか?

細田 俊明

まず不器用なのでハードウェアはダメだと。はんだごてができないんですよね。もう、そこができないと、京大の理系だと工学部情報学科か理学部かしかなかったんですが、理学部は当時二次試験に国語があったんですよ。それで。

丹下 大

消去法で(笑)。

細田 俊明

はい、消去法で(笑)。工学部は国語が二次試験の科目になかったので、もうそこしかないなと。

丹下 大

それだけ頭が良くて、理系でってなると医者とかも将来の選択肢に入ってくるんじゃないかなって思うんですけど、医者にはなりたくなかったんですか?

細田 俊明

不器用ですから。彫刻刀とかで手を切っちゃうので、ほら、メスとかも一緒でしょう?だから、はじめから選択肢になかったんです(笑)。

丹下 大

なるほど(笑)。そんな感じで情報学部に入ったと。消去法で。

細田 俊明

はい。あとは、今後伸びるのはコンピューターだろうと思ったのもあります。大学に入ったのが82年で、PC-8800とかが出たときだったんですね。もちろん記録媒体はフロッピーで、3.5インチじゃなくて、8インチくらいの大きいやつで。NECのPCが19万8,000円で出たくらいのころだったんです。

丹下 大

懐かしい。ありましたね~。これ、シフトモを読んでいる多くの方はたぶん知らないですよね(笑)。じゃあ、大学入った後はそういう研究に没頭してたんですか?

細田 俊明

(少し間が空いて)……そうですねえ。

丹下 大

(笑)。学校、ちゃんと行ってました?

細田 俊明

学校はちゃんと行ってましたが、1~2年生のときはサークルにも入っていたので。3年生から4年生に上がるときが大変でしたね。学年で40人の同級生がいたのですが、4年生に上がることができたのは40人中、26人だけでした。実験でだいたいアウトなんですよね。厳しかったというか、もう、実験自体が難しくて。

丹下 大

実験って、情報学部だとどんなことをするんですか?

細田 俊明

電卓作成とか。

丹下 大

それはちゃんと合格できたんですか?

細田 俊明

それはいけましたね。でも、当時成績が40人中19番くらいで。それで、大学院に行くのはやめました。ビリになるなあと思って(笑)。当時大学院に進学していたのは、40人中20人だったのでギリギリだなあと。

丹下 大

(笑)。時代ですね~。僕の頃は大学院まで進学しないと良いところに就職ができないから、99%が大学院への進学を選んでたと思うんですけど。

細田 俊明

当時は大学院を出ないと就けないような就職先って、ごくごく一部だったんですよね。その他なら、普通に職にはつけましたから。

丹下 大

細田さんが就活のころって、バブル前ですよね。

細田 俊明

はい。売り手市場になる少し前くらいですね。86年入社なので。それでも交通費は全額支給という、まあ、今では考えられない時代でしたね。

丹下 大

何社くらい受けたんですか?

細田 俊明

受けたというか見に行ったのは3社で、ちゃんと受けたのは新卒で入社した1社だけですね。

丹下 大

見に行ったのは見に行ったけど、本当に受けたのはその会社だけだったということですか?

細田 俊明

はい。当時は基本的には学校推薦で、今でいう就職活動を普通にやる人はほとんどいなかったですしね。

丹下 大

ちなみに、どうしてその会社を選んだんですか?

細田 俊明

給料が良かったんですよね。「金融機関のIT系で、ソフトウェアをやっていて給料が良い」というところが当時あまりなくて。同期は100人くらいいたんですが、当時会社自体は600~700人くらいという規模でした。僕の入社年度の3年ほど前から、ちょうど新卒採用を拡大している時期だったんです。

丹下 大

話は前後しますが、大学時代の面白いエピソードって何かありませんか?ここでしか聞けない話とか(笑)。

細田 俊明

あんまりないですね~。麻雀とかはよくやってましたけど(笑)。同級生が40人いて、「この優秀な人たちに何だったら勝てるんだろう」と思って、勝てたのが麻雀だったんです。1番強い人にも勝てたのは麻雀ですかね。あとは、ルービックキューブとか?

丹下 大

ルービックキューブ!今でもできます?

細田 俊明

もうできないですね(笑)。あれは反射神経が必要になるので。昔は1分くらいでできていましたが、今だと4分くらいかかります。

丹下 大

細田さんってあれですね、ディープラーニング的なんですね、思考が。ところで、なんでルービックキューブなんてやっていたんですか(笑)?

細田 俊明

高校2年の冬休みにルービックキューブが日本に来て、「これ、やらないと」と思ったんですよね。冬休みに勉強をせずにこればっかりやってたんです。それで、冬休み明けの1月7日あたりにみんなの前で「できた!」って言ってやって。みんなに拍手してもらって。その後に攻略本が出たんですよね~。

丹下 大

アーリーアダプターなんですね。親的には「あー、やっちゃったな!」って感じですよね。勉強しないよこの子!っていう(笑)。

細田 俊明

だから、当時ゲームがあったら絶対大変だったと思うんですよね。勉強なんて絶対しなかった。ヤバかったなと思います。

丹下 大

今日はすごく深掘りしてお話を聞きたいなと思っているんですけど、細田さんの中で、人格形成されたなっていう時期っていつになりますか?

細田 俊明

高校ですかねえ。賢い人がいっぱい集まるから、それで受けた衝撃っていうのはありました。入学当初は成績が悪かったので、部活には入らなかったですし。最初の試験で50番くらいだったんですよね。それで、これは部活に入ったらだめだと思って。

丹下 大

やっぱ気にするものなんですね。

細田 俊明

気にしてましたよー(笑)。高校1年生の時が一番勉強してましたね。

丹下 大

で、気づいたら1桁番台になっていたと。すごいですねえ。安定してるなあ、精神が。喧嘩とかしたことないんですか?

細田 俊明

中学校のときは友達とプロレスの技を掛け合ったりはしていましたが、それくらいですね。

このままこの会社で歳を重ねるのは何か違うな、って

丹下 大

どこまでいってもエピソードがかわいい(笑)。さて、話を戻しますが、新卒で入社して、どうでした?所感というか。

細田 俊明

正直に言うと、思ったよりはレベルが高くないな、ということにびっくりはしましたね。やっぱり、京大の猛者揃いの環境と比較してしまうと、いろんなところから人が来ているわけですから。このままこの会社で年を重ねていくというのは、何か違うなという違和感も抱いていました。課長に上がるときくらいなので、33歳くらいのときの話ですね。で、その直前の課長代理くらいのときに、“競馬ソフト”を作ったんですよ。

丹下 大

出た、競馬ソフト!何歳くらいのときに作ったんですか?

細田 俊明

30歳くらいのときですね。競馬が好きだったのと、ちょうどJRAから競馬のデータ配信が始まった時代で、PCが普及し始めたころだったんです。Accessでいろいろ新聞とか作れるなとわかったことと、当時はダイアルアップでデータ配信できるなと、友人と2人で気づいたのが始まりでした。

丹下 大

お~。95年ですか?

細田 俊明

94年くらいですね。みんなアナログでやっているからデジタルでやったら期待値75%以上はいくだろうなと思って作ってみたんですよね。当時はプリンターが輪転機(※紙幣を印刷する機械)に見えました(笑)。合法だし、お金になるなと思って。実際そうはいかなかったんですけど。

丹下 大

何ヵ月くらいで作ったんですか?

細田 俊明

2人で、企画から開発までで半年くらいですかね。勉強も兼ねてデータベースを設計して。当時「ギャロップ」という雑誌の広告枠に、会社でお金を出してもらって少しだけ広告を載せてもらっていて。当時、新事業創発などが流行っていた時期だったんですよ。

丹下 大

へ~、そうなんですね! 的中率はどうだったんですか?

細田 俊明

回収率としては90%以上はいってましたね。100%は流石に無理でしたが、通常の期待値が75%くらいなので、悪くはないかなという感じですね。でも、39,000円くらいでソフトを売るというビジネスモデルだったので、長続きしなくて。実際このソフトの開発に取り組んでいたのは、1年間くらいでしたね。100本くらい売れたんですけど、売れたのが逆にまずかったんです。バグが出たり、環境によって動作が違ったりして(笑)。そうして、若干本流で偉くなるルートから外れて遊んじゃったので、それもあって転職を考えました。

丹下 大

なるほど。じゃあ次の会社でのお話をうかがう前に、他に印象に残っているエピソードはありますか?

細田 俊明

そうですね、印象に残っているのは株式取引のオンラインサービスの立ち上げですかね。この初期バージョンの開発に、企画から携わったのは面白かったです。94年、ちょうどパソコンが普及し始めたころだったので、インターネットで株式取引をやりたいという顧客の意思もあり企画書を出したら通ったんですよ。当時ブラウザの商用利用が普及していない時代だったので、I.E.の前、ネットスケープという端末に入れてWebでシステムを作ろうという話になりました。最初は3万口座ぐらいでリリースをして。いろんな業者と話をつけて、ゲーム会社にCD-ROM制作とか掛け合ったりして。そうして今でいうWebアプリケーションサーバーっていう、この手のものを作ったというのが印象に残っていますね。

丹下 大

当時何歳ですか?“ビフォワー競馬”?

細田 俊明

いや、“アフター競馬”(笑)。1995年くらいなので、31歳くらいの時です。競馬ソフトの作り方で学んだ部分は大いにあったので、競馬ソフトを作ったのも、結果として役に立ったんですけどね。マルチウィンドウとか、ブラウザの制御の仕方とか。そのあたりはやっておいて良かったなあと。

丹下 大

すごいですね、時代を創った感ありますよね。ワクワクする良い時代ですね。

細田 俊明

1995年とかそれくらいですからね。新卒で入社した会社での仕事は、それが一番面白かったです。

(続きは後編!)
※プロフィールの所属部署名などはインタビュー時点のものです

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